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FRESH DANCE STUDIOプレゼンツ・インタビューシリーズMETH

2019.08.03

FRESHインタビュー。今回は大阪を飛び出して、北海道は知床、斜里(シャリ)に居を構えるMETH氏に話を伺う。日本のHIPHOPシーンにおいて、一世を風靡したアンダーグラウンドチーム、XXX-LARGE(トリプルエクストララージ)のメンバーであり、同時にグラフィティやデザインワークも行うなどマルチな才能を発揮し、現在はレコードをはじめとしたアイテムを扱う日本最極東のショップ、JUICE Recordsを経営している。自分は一度、彼がFRESH DANCE STUDIOで行なった「カルチャーWS」に参加したことがある。HIPHOPの成り立ちや日本のシーンの流れなど非常に基礎的で重要なトピックを自身のグラフィックを交えながら噛み砕いてレクチャーしてくれたのが今でも心に残っている。
このインタビューの前日はFRESH主催のイベント「Village Camp」にも出演し、ど迫力のダンスでオーディエンスを大いに沸かせたMETH。特に疲れた様子を見せることもなく、ビールを煽りながらインタビューに応じてくれた。

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1,ヘッズからアーティストへ。上京するMETH

"だいたいみんな27歳くらいで一回ターニングポイントが来ると思う。「あれ?このままでいいの?この歳まで正社員になったことないけど…」みたいな。あとは選択だよね"


今日はよろしくお願いします。まずはMETHさんがストリートダンスを始めた頃の話を聞かせてもらえますか?どんな出会いだったんでしょう?

俺がダンスのシーンに入った90年代は、時代的にイケてるものがたまたまHIP HOPだった。ダンスだけじゃなくてファッションとか音楽とかも全部一緒に入ってくるんだよね。で、HIP HOPにまつわるものをなんかやりたいってなった時に、ある奴は「俺RAPやる」とか「じゃあ俺DJやる」という風に分かれていくんだよね。その中で自分はダンスだった。イケてる人はみんなHIPHOPのことやってるくらいの勢い。あとサーファーも多かったね。
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でもその時代って情報がそこらにあるものじゃなかったから、自分から物色しに行かないといけなかった。ダンスの映像も滅多になかったし。でも自分の実家は電気屋で衛星放送が付いてて、アメリカの番組をそのまま垂れ流しにしてたんだよね。そこで店の備品を使って番組をダビングしてた。「Yo! MTV RAPS」(※1)とかね。PVに映ってるMarquestとかの踊りをさらにダビングして、ダンスの部分だけを繋げたエディットバージョンも独自に作ってた(笑)

※1「Yo! MTV RAPS」
1988年から1995年にかけてアメリカのMTVで放送されたHIPHOPを主に扱うテレビ番組。その後の日本のシーンにも大きく影響を与えた。インパクトのある吹き出しロゴも有名。


情報のアップデートが周りよりも早かったんですね。上京したのはいつですか?
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高校卒業後すぐだね。高2の時に「東京に行きたい!」っていう気持ちが強すぎて高校辞めようと思って。その頃はビギーが出たり、Gangstarrのアルバムが出たり、とにかくリリースが半端なくて。Manhattan RecordsとCISCOがめっちゃ盛り上がってた。「早く東京に行ってこれ(レコードを掘る動き)したい」って思ってた(笑) で、一回親に直談判したんだけど「高校だけは出て欲しい」って言われた。で、高校を卒業した一週間後に上京した。現金5万だけ持って(笑)

少ない!(笑) 生活のベースはどう確保したんですか?

まずは派遣で引っ越し屋のアルバイトしてたんだけど、いかに働かずに好きな時間を過ごすかを考えてたね。だんだん働き方も工夫したりして。昼間の渋谷も夜の渋谷も楽しみたいって思ってたし、好きなショップに遊びに行って店員さんと仲良くなりたいけど引越し屋終わりのクタクタの状態で行きたくないじゃん?(笑) だから週3,4くらい働いて、残りの3日くらいは原宿ぷらぷらして、とか。だから正統派の生き方はしてないね。
(もちろんここでは刺激的かつグレーな話題になったわけだが、具体的な内容は割愛させてもらう)

その当時から「ダンスを仕事にしたい」という気持ちはありましたか?

自分の生活のサイクルの中でダンスが一番健全だと思ったんだよね。それ以外は生活がダーティだからさ。練習してショーして認められてっていうプロセスが自分が考えうる一番まともな道だった。それからできるだけオーディエンスではなくてプレーヤーでいることを意識していたのもあるね。はじめの7年くらいは食えなくて、ズブズブだったけど、ダンスがあったからまともでいれた。ダンスありがとうって感じ。
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上京から7年ごしにダンスで食べれるようになったわけですね。

BUTTERのO-SHIMA君に色々面倒見てもらって、ダンスのレッスンもさせてもらってやっと食えるようになった。頭が上がんないよ。ダンスで食えるようになった時、親に報告したね。それまでは「ダンスで食っていくなんて馬鹿じゃないの」って思われてたけど、そこでやっと認めてもらえた感じはあった。それまでは気まずいから地元に帰れないんだよね。7年ぶりに実家に帰った時は懐かしさもあってちょっと泣きそうになった。

過去のMETHさんのインタビュー記事で、「自分の好きだった漫画とHIP HOPが繋がった」という話があったのですがその時の話を教えてもらえますか?

ドラゴンボールがめっちゃ好きだったんだけど、鳥山明はアメコミに影響を受けてるんだよね。効果音を文字にするところとか。俺は最初、鳥山明から入ったんだけど、アメコミも結構見てたからなんとなく「アメリカのカルチャーが好きなんだろうな」っていうのは小学校の頃から感じてて。アウトラインの弾き方もサインペン使って滲ませてるな、とか。
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だから、それを真似して描くんだけど、悟空を描くんじゃなくて「ドーン」とか「バーン」とか効果音ばっかり描いてた(笑) 効果音の文字にヒビ入ってたりとかするじゃん?ああいうの。で、そのあと中学校くらいにグラフィティっていうカルチャーを知るんだよね。アメコミのキャラクターとかもグラフィティに加えてたり、立体的に見えるような文字を描いてたり。

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で自分は鳥山明を真似して効果音とか描いてたから、グラフィティを見たときに「あ、俺もこれ得意なやつだ」って思った。そこで繋がるんだよね。だから自然な流れだった。漫画が好きで、HIPHOPが好きで、たまたま出会うみたいな。それから89年とか90年くらいに出た「SUBWAY ART」「SPRAY CAN ART」っていうグラフィティの写真集をプレゼントしてもらったことがあって、それ見て全部真似して描いてたね。自分の学習机とかスピーカーとかに描きまくってた。

そうやってHIPHOPを身近なものとして感じられる体験は大切ですね。決して遠い世界のものではないんだという。そうやって夢中で描いていたグラフィティが、デザインの仕事に繋がったきっかけはなんだったんですか?

斜里の後輩で一人センスがいい奴がいて俺の1年遅れで上京してくるんだけど、速攻セレクトショップで働くんだけど、気づいたらそのショップのディレクションとかもし始めてて。Buddha Brandのロゴも作ったりしててさ。そいつんち遊びに行った時に「ブランドとかやればいいじゃん」って言われて、ノリで「じゃあTシャツでも作ろうかな」ってなってブランドを作ってみたのがデザインのスタートだね。当時まだボックス型だったiMacを買って、なんとなくどんなことやれるのか試したりして。
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その時にたまたま部屋にあったNASのDVDのジャケにある、マンハッタンのビルの風景をトレースしてXXX-LARGEのアーチロゴをくっつけたのをいまだに使ってるんだけど、それが作品第一号だね。

軽いノリだったり「遊び感覚」というところが重要ですよね。「まずやってみようか」という。

周りでそういうことをやれる奴も少なかったし、ナイスなデザインができれば衣装にもできるしね。シルクスクリーンがどうこうっていうのは(S.A.Sの)HAYATOが得意だったから、デザインのネタさえ持っていけばTシャツも刷れた。で、作ったTシャツをトリプルとかS.A.Sの連中に配ってたね。それで知ってもらって買ってもらうっていう流れだった。当時はイベントで物販をやるって概念がまだないんだよね。だから服を作ってもどこで売るかが難しくて。だからOllieのショップリスト見て、片っぱしから電話かけた。アポイントとって送らせてもらって、反応うかがって、「よかったら置いてもらえませんか?」って。めっちゃ金かかったけど最終、12店舗くらい置いてもらえた。それが23,4歳くらい。

XXX-LARGEでDance Delightに出場した時の衣装もMETHさんがデザインされたと過去のインタビュー記事にありましたね。

Delightの衣装は、刺繍とか完全オリジナルデザインだった。でも素人すぎて、スタジャンにするレベルの刺繍とかになっちゃったからバスケシャツで作ったのにたためないくらい分厚くなっちゃったりしてさ。で、衣装代が一人6万円!凹んだね(笑)

高い!(笑) でもMETHさんのおっしゃったエピソードのように、はじめは遊び感覚で始めたものがお金になったり仕事になったりというのは夢がありますよね。ただ「好きなことを仕事にする」というのはやはり一筋縄ではいかないと思います。そういった不安はありましたか?
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だいたいみんな27歳くらいで一回ターニングポイントが来ると思う。「あれ?このままでいいの?この歳まで正社員になったことないけど…」みたいな。あとは選択だよね。その時にちょっと迷うけど、自分の場合は会社員の生活に耐えれる自信がなかったんだよね。自分の好きなことを仕事にすることも、会社員として働くことも、どっち行っても気合いは絶対必要じゃん?で、どっちに気合いを入れやすいかなってなったら、自分はダンスだったりデザインだったり、今までやってきたことの方が入れやすいと思ったから。

ダンスとデザインの両立といった、いわゆる「二足のわらじ」というのは当時は少なかったのでは?

本当にしっかりしたロゴを作ってるダンサーはいなかったから、逆にいうとやったらやったもん勝ちになるって思ったね。当時は、ブランドはブランドとして独立させたいと考えてたけど、まずはダンサーのサポートがあって成り立つと思う。自分のダンサーとしてのブランドがあるからこそデザインのブランドも活きてくるというか。実際、ロゴとかグラフィックスの仕事をもらうのもダンサーのクライアントが多いし。

デザインの仕事において大変な点はなんでしょう?

(デザイン的に)アーティスティックな部分と商業的な部分の間のジレンマはある。でもメイクマネーできれば、大概の悩みはクリアしていくね。 自分の一番尖ってる部分から優先順位としては3番目4番目のデザインを出してみて、最初はそれが不本意だとしても、お金ができればそれを元手にしてやりたいこともできるし。JUICE RecordsのロゴTもシンプルなデザインだし安く作って安く売ってるけど、バーっと広めちゃった方がその分広告になるし、それでうちのことを見てもらう時に本領発揮すればいいわけだしね。

確かに。以前PROPSのショーでHONGOUさんがJUICE RecordsのロンTを着ていましたが、そうすることによってお店の名前が関西にも広まりますよね。その結果JUICE Recorsのレコードだったり他のアイテムも見てもらうことに繋がると。

そうそう。まぁでもJUICE Recordsの主な売り上げはビールだけどね(笑)

2,XXX-LARGEとHEX BEXの邂逅。そして帰北するMETH

"「サロン」みたいな場所が欲しかったんだよね。ここに来れば俺がいて、駄弁ることができるみたいな"


20代30代40代とステージが移っていくにつれて、ダンスに対する考えに変化はありましたか?
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ダンスの練習はしなくなるよね。ショーとかレッスンをめっちゃこなす時代を経て、基礎的なものだったり理想のイメージはもう自分の中にあって。ショーアップされたものよりも「自分の存在感」というものを意識するようになる。昔自分が憧れてた「歩いてるだけでかっこいい」ってやつ。そうやってシンプルなものでも魅せれたり、「只者じゃない」みたいなオーラを身につけるには、経験値だったり人間的な分厚みの方が重要になると思ってて。そのためには練習よりも遊びに使う時間の方が大事なんだよね。練習ばっかりしてるダンサーと遊んでるダンサーはすぐわかるからさ。

その違いは確かに大きいかもしれません。

東京に出てきた時も、ROOTSとかBUTTERとか、遊びを大事にするチームの方が自分の目にはカッコよく映ってたからじゃあ自分たちも遊ぼうってなった。ただ、バックダンサーやっててもXXX-LARGEの名前は上がっていかないし、ディライトみたいなコンテストにも出ないと名前も上がっていかないし、じゃあコンテストにチャレンジするかってなった。でもやるからにはトップ目指そうって。で、その「やるか」ってなったタイミングがHEX BEXと同じだった。

遊びの部分も大事にするダンサーがコンテストで通用した、という事実は大きいでしょうね。

HEXとかsucreamはそれを大阪で証明したんじゃないかな。

XXX-LARGEとHEX BEXの出会いの話を聞かせてもらえますか?

ディライトのポスターが各スタジオに貼ってあってさ。TANABONから「大阪にお前らみたいな奴おって今回出場するで。このHEX BEXっていうチーム!」って言われてさ。で、チームの練習の時にてっつぁん(TETSU)とタケ(TAKESABURO)にそのことを言ったら、タケが「何がHEX BEXじゃ!!」ってポスター蹴ったりしてさ(笑)
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こわい!闘争心むき出しですね...(笑)

タケは尖りまくりだったからね(笑) 当日、俺らは他のチームのショーは見ないタイプだったけど、HEXは気になるからてっつぁんと二人で見てた。で、HEXのショー見て、音源とかも含めてめっちゃ食らって。HEXのショーの後、声かけに行こうと思って舞台裏に行ったら、タケがもう喋ってたんだよね(笑)

ポスターを蹴っていた方が一番最初に!?(笑) でもそれだけ共鳴する部分があったわけですね。

多分別の場所で偵察してたんだと思う。で、その時から今までずっとその縁は切れてないね。ツアーしてDVD作ったり一緒にショーしたり。
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東京でなんかやるってなった時はHEXも呼ぶってなってた。「EXTRA LOUNGE」とかまさにそうだったね。当時一緒に遊べるダンサーが少なかったから。でも当時まだ若手だし、自分らも金があるわけじゃないから一緒にやりたくても呼べないっていう問題もあった。HEX BEX+XXX-LARGEのショーは、Style Juntionで呼んでもらったのが最初だね。めっちゃ面白かった。NYに行く話も出てたから、とにかくこの繋がりが途切れないように何かにつけて6人で行動しようとしてた。NYに行った時はXXX-LARGE、HEX BEXの6人とDJ O-NOさん。あとカメラマン、マネージャーも同行して大所帯だったね。元々はO-NOさんがJeru The Damajaに音源を渡しに行くっていう名目だったんだよね。それに俺らが便乗するみたいな。でもNYの旅は本当に色々あった。ハプニングだらけだったよ。

METHさんが地元である斜里に戻ったのはいつですか?

2011年だから33歳だね。東日本大震災がきっかけ。
STRAD(現在のSowl Villageの前身)の初回を2010年に開催したんだけど、それまでCITTA’を使ってるダンサーっていなくてさ。それまでダンスのイベントは客入らないからCITTA’側もダンスイベントを敬遠してたんだけど、そこに直談判しに行ってさ。で、結果お客さんめっちゃ入ったから、CITTA’側も気に入ってくれて。その次の2回目の時にトリプルとS.A.Sの10周年を記念してやろうとしてたんだけど、最初予定してた日の1週間前に大震災が起こったの。そこからやっぱりみんなイベントを自粛するんだよね。でもなんとか気合いでやろうって言って予定の2ヶ月後に開催した。そしたら1回目よりもさらに盛り上がったんだよ。2階席もパンパンになるくらいお客も入って。チームのアニバーサリーパーティが成功して、流れとしてはネクストステップへってイメージだったんだけど、その時には自分の中で帰ることを決めてて。周年のパーティが終わってからみんなに伝えた。

帰った時は、不安ではありませんでしたか?

めっちゃ不安だった。東京時代から札幌とか釧路のシーンとは繋がりがあったものの、ほぼノープランだった。1年くらい経ったらぱったりブッキングも無くなってさ。そこからは結構厳しかったね。

1から生計を立てたり活動のベースを作ったり、ということに向き合うわけですね。
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だから地方の営業が少なくなった分感謝の気持ちが増えたね。田舎だからエア(飛行機)代が結構高くなっちゃうんだけど、そのうえで呼びたいって思ってくれたら、その分こっちも誠心誠意やりたいと思うようになった。「呼んでくれてありがとう」って。帰ってからグラフィティを描いて送ったりね。そういうことをやって徐々に仕事も増えてきたかなって感じ。
あとは「田舎に住んでるけど、地方に呼んでもらえるようなダンサー」のモデルケースになろうと思った。そうなれば、他の人も「ダンスするなら東京か大阪」っていう考えからもっと視野が広くなると思って。そういう影響の与え方もできるかな、と。

ダンス以外にも現在はJUICE Recordsの経営も大きなライフサイクルの一つだと思いますが、どういった経緯でお店ができたんですか?

まず地元に戻ったらダンスで動く機会は減るっていうことはわかってたから、他に何かしたいなって思ってその時にレコ屋を思いついた。レコードが好きで、いつかレコ屋やりたいっていう憧れみたいなのが元々あったから。そんなにはっきりはしてなかったし、それが生活に直結するとは思ってなかったけど。
イメージとしては「サロン」みたいな場所が欲しかったんだよね。ダンサーって自分の小屋(拠点)を持ってないじゃん?自分で動くものというか。そうではなくて、ここに来れば俺がいて、駄弁ることができるみたいな。そういうのがないとストリートのビジネスって成り立たないと思うんだよね。田舎って本当に人と接触することが少なくてアポを取って会うしかできないんだよね。田舎すぎてそもそも”ストリート”がないから(笑) 小屋があれば、ダンスの話をしたり、デザインの打ち合わせもできるし。っていう流れでJUICE Recordsはサロン的な意味合いが強い。もちろんレコードを売ることも頑張るけどね。
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「あそこに行けば何かがある」と思わせてくれる秘密基地のようなお店は、ワクワクしますね。

店のレイアウトもレコードの割合は少なくて、ソファーくっつけて部屋みたいにしてるね。集まる場所を作らないと全く何も育たないからさ。たまに「個人レッスンしてください」って連絡くるから店の中で個人レッスンもやるけどね。「JUICE Recordsおいでよ」っつって、ソファーとかどかして。ターンテーブルあるし音楽もいくらでもあるし。そっちの方がいいと思う。「FUNKはこういうの。SOULはこういうの。HIPHOPはこういうの」って音楽のニュアンスを伝えることもできるしね。俺らがヘッズだった時も、服屋で働いてるダンサーの人に教えてもらったりしてたんだよね。ターンテーブルが付いててちょっと踊ってるところに、「教えてください」って頼んで、ほんとにちょっとしたスペースで教えてもらうみたいなのがあったからさ。

この時代にそのスタイルを復活させることは、いわば逆境ですしエネルギーが必要ではなかったですか?

斜里は田舎すぎてHIPHOPとかダンスというものの下地が0なんだよね。でも逆にいうと下地が0だからこそ、濃いことをやっても有りになるんだよね。下地があるとそれと比べられちゃうけど「こういうものだよ」ってすれば有りになる。個人レッスンに来る子は、スタジオで教えてもらえるって思って来るから「なんか違う…」ってなることも多いけどね(笑) でもコミュニケーションとりながら「こういうものなんだよ」って伝えていくね。その子たちも、今は違和感を感じるかもしれないけど、例えば都市部のレッスンに行って先生から「どういう風に練習してたの?」って聞かれた時に「レコ屋で練習してました」って言ったら、わかる人はびっくりするし、一目置かれると思うから。そういう風になれば繋がる人も変わって来るし。だから地道にすりこんでる感じだね。

とても贅沢だと思います。JUICE RecordsだからこそというかMETHさんだからこそできることですね

あとうちの店は、窓から斜里岳も見えるしロケーション最高だよ!あと店の中にマッサージチェアがあるし、冷蔵庫も設置したし、こないだなんかはジンギスカンパーティもしたしね(笑) ぜひ一度、遊びに来て欲しい。
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彼は今、地理的にも人口的にも決して良い環境とは言えない地元斜里に根を張り、地道にしかし確実にシーンの土台を築きつつある。逆風を見事に追い風に変えてきた彼の話を聞いていると、本当に重要なのは環境の良し悪しではなく、気持ちの大きさと、それを形にするためのアイデアと工夫なのだと気付かされた。国内各所にてHIP HOPカルチャーWSやグラフィティWSを行うなど、クレバーなアウトプットを行うことでも知られるMETH。この日も前日のVillage Campのショーでの野生的な面と打って変わって、穏やかにそして時々ユーモアたっぷりにインタビューに応じる姿が印象的だった。彼の話していた「人間的な 分厚み」という言葉が、これからしばらく頭を離れなさそうだ。
2019.8.3


JUICE Records

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[日本の最極東 知床 斜里町に構えるレコードショップ(電気店併設)国道244に面しており、主にHIPHOP関連(SOUL/FUNK/JAZZ)と和モノの取り扱いを得意とし、オリジナルのウェア開発にも力を入れている。MIX CD等も取り扱う。ゆったりとしたレイアウトの店内にはマッサージチェアも完備しており、店先から望む名峰 斜里岳を眺めながらのんびりレコードを吟味できるよう努めています。是非、知床観光がてらご来店お待ちしてます。]
◉住所 : 北海道斜里郡斜里町光陽町15-22
◉アクセス方法 : JR 知床斜里駅より徒歩10分 車3分
◉営業時間 : 土曜~水曜 (偶数週水曜休み) 14:00~21:00
◉定休日 : 不定休
◉JUICE Records HPはこちらから。


インタビュー・文 : Seiji Horiguchi
Seiji Horiguchi
フリーライター。新聞記者になることを夢見る学生時代を経て、気づけばアメ村に。関西を中心に、アーティスト(ダンサー/ラッパー/シンガー/フォトグラファー/ヘアアーティスト stc…)のプロフィール作成やインタビュー記事の作成を行っている。現在の主な執筆活動としては
・FRESH DANCE STUDIOインタビューシリーズ
・カジカジ、連載「HAKAH’S PROCESS」
・その他パーティレポ、ダンスチーム紹介文、音楽作品の紹介
などが挙げられる。大阪のアンダーグラウンドシーンにアンテナを張りつつストリートカルチャーの「かっこいい」を広めるべく日々執筆中。


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